北の峰ラベンダー園看板の謎・下
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各地の発祥の地
北の峰にある奇妙な看板。改めて書かれている「由来」をもとに、その内容の真偽を確かめます。
大正の初期ライオンはみかぎの小林卯三郎氏が原産地フランスから苗を取り寄せ植え付けたのが始まりと言われている。当時、収入の高い農産物として麓郷地区に多く栽培され香料の原料として出荷されたが科学香料の開発により栽培が縮小された。
このラベンダー園は富良野市の残り少いラベンダーを保存すべく昭和五十五年五月北の峰旅館組合員の手によって麓郷より移植されたものである(面積二十アール)
大正の初期
既に出だしから大きな誤りがあります。明治36年生まれの小林氏が外国語学校を卒業したのが大正14年。昭和2年にデンマークへ留学し、7年にハッカ苗を輸入しています。昭和の初期であればまだ可能性があったのですが。
ライオンはみかぎの小林卯三郎氏
ここにも誤りがあって、当時氏の「小林薄荷は独立企業体であり、ライオン歯磨本舗小林商店とはまったく関係のない経営であった」と小冊子の脚注にあります。
原産地フランスから苗を取り寄せ植え付けたのが始まりと言われている。
前回指摘したように「三十日以上かかるインド洋経由の海路輸送」でラベンダーの苗を取り寄せるのは不可能です。百歩譲って植えつけたとして、どこで「植えつけたのが始ま」ったのか、どこで「言われている」のか明示されておらず、看板に書く内容としてはあまりにお粗末です。
当時、収入の高い農産物として麓郷地区に多く栽培され
この当時というのがいつの時代を指すのか極めて曖昧ですが「昭和32年に富良野市(当時は富良野町)麓郷に蒸留場設置(ラベンダーの由来・上富良野町郷土を探る第9号)」とありますのでこの時代に麓郷地区で多く栽培されたのは事実でしょう。しかしこれは曽田香料を起源としたラベンダー栽培の流れの中でのことですから、小林氏とはまったく関係ありません。
香料の原料として出荷されたが科学香料の開発により栽培が縮小された。
これも曽田香料がオイルの買い取りを中止したことを指しています。最終的な打ち切りは昭和52年のことです。このことは昭和55年5月に移植されたという、その後に続く内容と符合します。
以上見てきたように最初の一文に関しては、まったくのデタラメが書いてあるといっても差し支えないでしょう。麓郷地区での栽培の行は事実ですが、戦後上富良野町東中地区で始まり、富良野地方一円で広まったラベンダー栽培を指しています。
どうしてこのような看板の設置に至ったのか、30年もの間掲示され続けてきたのか不思議でなりません。もっといえば小林氏の薄荷事業の功績を正当に評価せず、名を借りて都合のいいように利用したとも受け取れます。
残念ながら現時点でわかったことは、連名で名を連ねている団体のいい加減さが明らかになったということくらいです。当ブログでは限りなくクロと判定させていただきますが、今後も調査は進めていきます。情報お待ちしております。
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